神祇伯白川家と霊明神社

神祇伯・白川家について

 霊明神社との関係を言及するにあたり、まず神祇伯・白川家について説明しておきたい

 

 奈良・飛鳥時代の律令制が整えられてくるあたりから始まったとされる神祇官がある。これは朝廷の祭祀を司り、諸国の官社を総轄した官庁である

 白川家は、花山天皇の皇子・清仁親王の御子である延信王が神祇伯(神祇官の長官)に任ぜられたことが始まりで、以降、その子孫が神祇伯を世襲している。皇族を離れた身でありながら、花山天皇の孫ということで王号を許され、顕広王の代から神祇伯が王を名乗る慣習となっている

 白川家は宮中内侍所及び八神殿の祭祀を司る他、天皇や皇族、摂関家にその作法を伝授し、諸国の神社を統括してきたが、鎌倉中期以後から次第に勢力を弱め、室町時代には代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が台頭する

 吉田兼倶は吉田神道を唱え、神祇管領、神道棟梁を称して、次第に実権を握っていく。それに伴い白川家は所管の社数を減らしていき、宮中祭祀に関することで維持を図っていく様相となる。吉田家の神祇界の支配を不動のものにしたのは徳川幕府による「諸社神主禰宜祝法度」である。この中で、位階を有しない神社の社人は白張を身につけなければならないとし、狩衣や衣冠などの装束は吉田家の発布する神道裁許状を取得しなければ着用を許可しないと定めた。これにより、全国の神職は吉田家の神道講習を受けて神道裁許状を得る必要があり、吉田家がほぼ全ての神社の神職を管理することになる。霊明神社の初世・都愷も吉田家より神道葬祭の許状を吉田家より得ており、二世・美平に引き続き許状を得ており、3世・都平のときに永世許状を得ている

 そして、江戸時代中頃より、復古思想が興り、国学が盛んになる。この流れの中で白川家が注目されることになる。白川家の歴史とその正統性がリスペクトされ、復権が求められていき、宝暦年間あたりから幕末にかけて所管の神社や門人が増加えていく。もちろん、ここには白川家の研鑽もある。雅光王が臼井雅胤(霊山に墓地あり)を学頭に迎え、伯家神道を学問的に整備していったこと、神祇伯雅富王によって垂加神道とつながったこと、竹内式部に師事し学頭に森昌胤を据えた資顕王によって伯家神道が確立されていったことなどが挙げられる。平田国学の平田篤胤や平田銕胤を学頭に迎えたことも大きかっただろう。森昌胤の『神道通国弁義』には幕府に遠慮はしているものの国学や勤王の思想に通じたものになっており、また吉田神道と対立的な姿勢をも打ち出している

 いよいよ吉田家とも熾烈な論争を起こすことになり、両家がそれぞれ朝廷に陳情するような事態にも発展している。文化13年8月改の「吉田家職掌筋白川家と争論官裁一件」などがそれである。こうしたこともあり、白川家の組織・体制を整えていく必要があったと思われる。白川家の『諸國門人帳』(白川家門人帳)もそうした背景にあったものと思われる。ちなみに、霊明神社は吉田家から許状を得たり、二世・美平は吉田家の門人にもなっているが、一方で白川家と親しく付き合っており、白川家の門人帳を見ていると、霊明神社と同じように吉田家とも白川家とも両方ともにうまく付き合おうとしている神職たちが全国に大勢いたようである

 明治になると政治のあり方が一新されて、神祇制度も新しくなり、当時の白川家当主・資訓王は神祇伯の地位を失い、王号も返上することになった。当初は神祇官の次官である神祇大副を務めた。また、白川家は公家として華族に列せられ、後に資訓は子爵に叙せられた。この資訓が昭和34年に亡くなり、白川家は残念ながら絶家となっている

 

白川家門人と霊明神社

 神道墓地を創設し、神道葬祭を断行するということは、徳川幕府の寺請制度(檀家制度)がある以上、相当の覚悟が必要なことであった。また、霊山の山を切り開き、土地や道を整備するにしても、お金も人も相当必要なことであったろうと思われる。そんな初期の霊明神社を支えたのが白川家の門人たちであった。村上都愷の神ながらの道の徹底という思想に共鳴する、神道の信仰心の篤い人や国学に通じている人たちがいなければ、到底なしえないことであった

 村上都愷は文化8年閏2月1日に白川家の門人となっている。霊明神社創祀後のことであり、国学や神道を学ぶというよりは、後ろ盾のない霊明神社が白川家の庇護も得ながら、門人たちと交わり、同志や社中となる者を募るためであったろうと思われる

 また、都愷の息子である今藤玄俊も白川家の門人である。霊明神社と白川家の門人をつないでいるのは、この玄俊とその親族と思しき人物である

 初期の霊明神社の社中には白川家の門人たちが多くいる。奥澤家、澤山家、松田家(松本家)、城戸家など(現在調査中)。また、霊明神社で祀られた志士にも白川家の門人になっている人たちが多く、霊明神社に出入りしていた関係者にも白川家の門人が多かった。最初は久坂玄瑞をはじめとする長州藩士たちと霊明神社がつながっていくが、この最初のつながりも白川家門人たちによる紹介であったのかもしれない

『霊明神社記録』における「白川殿神拝式写」
『霊明神社記録』における「白川殿神拝式写」

※『霊明神社記録』における「白川殿神拝式写」には、文化五辰年十一月九日とあり、村上都愷が門人になる前の日付になっている。以前より門人になっていたのか、それとも息子・玄俊によるものであろうか

 

白川家門人による霊山墓地の開拓

 霊明神社が霊山に創設した神道葬祭場の神道墓地には白川家が協力しており、白川家門人帳には「洛東霊山神葬地開発」の記述を二つ見ることができる。岩下方平と木村儀助の項である

■薩摩藩士・岩下方平

 『白川家門人帳』の「文化五年戌辰年ヨリ 諸國御門人帳 四冊之内」の表紙の貼紙に「文久二年八月 岩下方平 薩・隈・日三カ國取締申付」とあり、その横に「洛東霊山神葬地開発」とある。霊山墓地の開発に薩摩藩士の岩下方平が関わっていることがその表紙に示されている

※中央には「文政七年三月 福羽文三郎館入願 子爵美静氏」とあり、福羽美静の名も確認できる。文久2年12月に霊明神社で斎行された殉難志士の招魂祭の会頭頭取の一人である。福羽美静もまた霊明神社とは白川家の門人つながりである

※ここでは詳述しないが、左の「矢野玄道」もまた幕末明治に活躍する著名な国学者である

 

 岩下方平は幕末明治維新に活躍した勤王派の薩摩志士である。薩摩藩の精忠組に参加し、西郷隆盛・大久保正助利済(利通)・堀仲左衛門らと共に主導的な役割をしている。安政年間には諸藩の有志と交わり奔走した。水戸藩と共同して大老・井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、薩摩藩主・島津茂久およびその実父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫している

「文化五年戌辰年ヨリ 諸國御門人帳 四冊之内」の表紙の貼紙に「文久二年八月 岩下方平 薩・隈・日三カ國取締申付」とあり、その横に「洛東霊山神葬地開発」とある(出典:「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」)
「文化五年戌辰年ヨリ 諸國御門人帳 四冊之内」の表紙の貼紙に「文久二年八月 岩下方平 薩・隈・日三カ國取締申付」とあり、その横に「洛東霊山神葬地開発」とある(出典:「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」)

 文久3年の生麦事件からの薩英戦争では島津久光の命を受け、重野安繹らとともに英国代理公使ニール大佐と面会し、和平交渉を担当している

 慶応2年にはフランスに視察に行き、翌年のパリ万博では「日本薩摩琉球国太守政府」使節団長も務めている

 小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通らと共に薩摩藩の重責を担い、明治になると、大阪府判事、留守次官、京都府権知事、元老院議官などを歴任。後に華族に列せられ子爵となり、貴族院議員にもなっている

 

 さて、岩下方平は安政3年(1856)に薩摩藩士・相良長基の紹介により平田銕胤の国学塾・気吹舎の門人となっている。岩下方平は平田銕胤やその息子の平田延胤に目まぐるしく変わる政況について、文を送ったり、面会するなどして、逐一報告している。平田延胤は岩下方平と対面して寺田屋騒動の顛末や久光上京の目的について尋ねたりしている。ちなみに、霊明神社が最初に志士として祀った船越清蔵にも長州藩の情勢や航海遠略策を唱えた長井雅楽のことを聞き出そうともしている。自身が仕える久保田藩のための諜報活動のようであるが、それ以上に天皇中心の国づくりを行うべく行動を起こそうとしていた人のようである

 

 霊明神社との関わりで触れておきたいのは、文久3年2月の平田派国学の門人たちが起こした「足利三代木像梟首事件」である。平田銕胤が藩命により上京、それにともない延胤らも上京しており、この機会に奉勅攘夷の運動を盛り上げようと平田派国学の人たちが続々と京都に終結していた。こういった背景の中、起こったのが足利三代木像梟首事件であった(ただし、銕胤や延胤らはこの事件には関わっていない)。後醍醐天皇の親政に反旗を翻した逆臣であるとして、等持院で祀られている足利尊氏・二代義詮・三代義満の木像の首が引き抜かれ、位牌とともに持ち出されて三条河原に晒されたのである

 犯人は、伊藤嘉融・梅村真一郎(島原藩)、石川一(鳥取東館新田藩)、仙石佐多雄(鳥取藩)、岡元太郎・野呂久左衛門(岡山藩)、中島永吉錫胤(徳島藩)、北村義貞(姫路藩)、角田三郎忠行(岩村田藩出身の神職)、三輪田綱一郎元綱(伊予松山出身の神職)、師岡節斎正胤、青柳健之助高鞆(下総)、長尾郁三郎(京の商人)、建部健一郎(常陸)、西川善六吉輔(近江の豪商で国学者)、高松趟之助平十郎(信濃。北辰一刀流虎韜館師範代)、宮和田勇太郎(剣客宮和田又左衛門の子)、小室利喜蔵(京の商人)ら平田派国学の人たちであり、多数大庭恭平(会津藩)や長沢真古登(陸奥)も関与している。千石佐多雄と高松平十郎がこの事件により命を落としている。

 彼らのうち白川家の門人である長尾郁三郎・西川吉輔は文久2年12月に霊明神社で斎行された殉難志士の招魂祭の会頭頭取を同門の福羽美静と並んで務めている。また、中島永吉と小室利喜蔵もこれに参列している。この事件に関わった20人のうち4人もの人が霊明神社での招魂祭に参列している

 そして、彼らのうち、千石佐多雄、師岡正胤、長尾郁三郎、西川吉輔、高松平十郎の神霊を霊明神社で祀っており、千石・長尾・西川(分骨)・高松の奥都城が霊山墓地にある。師岡の奥都城は霊明神社西墓地にあり、師岡家は現在も霊明神社の社中である

 

 さて、話を岩下方平に戻す。岩下方平が白川家の門人になるのは、文久2年8月のことで、取り次いでいるのは長尾郁三郎と木村数馬である。文久2年12月の招魂祭の会頭頭取を務めている2人である

 霊明神社では文久2年4月の寺田屋事件で亡くなった薩摩藩士たちを祀っているが、そのときの世話役にはこの岩下方平が関わっているのかもしれない(祀られた時期は不明)。また、文久2年12月の招魂祭では薩摩藩が長州藩と並んで施主を担当しているが、ここにもなんらかの関わりがあったのかもしれない。招魂祭の当日に参列していた薩摩藩の大山彦八(伏見薩摩藩邸の留守居役。寺田屋で坂本龍馬が襲われた際、舟を出して助けた人で、元帥陸軍大将の大山巌の実兄である)や柳田岱淳は岩下方平から霊明神社の話を聞いていたかもしれない

 

■今藤常陸掾の同居人・木村儀助源明禮

 文政八乙酉年十月に今藤常陸大掾(玄俊)の推薦で木村儀助が白川家の門人となっている

 木村儀助の詳細はわからないが、おそらく霊山墓地の開拓を担当した人物ではないだろうか。そのため、玄俊の親族の家に住まわせているのではないかと思われる

 文政十一戌子年九月には木村儀助が両親の墓地を霊山墓地に作りたい旨を神祇伯王に申し出ており、やはり、その推薦を今藤常陸大掾が行っている

※この件については、現在のところ霊明神社の史料からは確認できておらず、その奥都城があるか調査中

 

木村儀助による霊山墓地への神葬についての記述を「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」より作成
木村儀助による霊山墓地への神葬についての記述を「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」より作成

<参考文献>

■近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972

■延原大川 著『黒門勤皇家列伝』,竜宿山房,昭和17

■干河岸貫一 編『明治百傑伝』,青木嵩山堂,明35.3 など