医家 今藤玄俊

 初世・都愷には玄俊という息子がおり、後に今藤氏を継いでいる

 

<今藤玄俊略歴>

●寛政元年6月1日に生れる ※二世・美平と同じ年に生れている

●文化12年2月16日 補史生となる

●文化12年8月2日 正七位下を賜る

●文政5年正月25日 常陸大掾となり、従六位下を賜る

●嘉永4年12月24日 主殿大属となる

 

 近世京都のいわゆる名士、市井の紳士録、各方面の文化人などを紹介した『平安人物誌』には、「今藤玄俊(寛政元年~ ) 医家。字は秀甫。済世館又は乳足廼舎と号した。後今藤常陸大掾に任じた。京都の人寛政元年村上都愷の男として生れ後今藤氏を継いで綾小路室町西に住み医(小児科)を業とした。和漢の衆説を究め、治術に尽したが、傍神道学及び考古の学に興を寄せ書もまたよくした。文化十二年には主殿寮の史生に補せられ文政五年には常陸大掾に任し嘉永四年には主殿大属に任ぜられた。(文政五 医家 文政十三 医家 天保九 医家 再出 文雅 嘉永五 医家 再出 文雅)」

 とあり、父・都愷の影響を受け、国学・神道にもよく通じていることがわかる

『神経学雑誌』に今藤玄俊を紹介している項目があり、そこには「小児ヲ育スルノ術ハ乳汁ノ濃淡可否ニアリ。瘡癰結核腔立トコロニ生ズ」とよく言っていたとある。乳足舎という号はそこから来ているのだろう(出典:『神経学雑誌 = Neurologia』30(6),日本神経学会事務所,1929-05)

 

■今藤玄俊が「石清水八幡宮御造替に其古木を以て作たる鳩杖の頭を呈上侍りて」読みたる歌

「やはた山 古き宮居の 鳩の杖 千歳の坂を 登りませとて」

 

 ■安政2年の孝明天皇の新内裏への還幸行列のエピソード

 嘉永7年(1854)4月6日に内裏が炎上し(嘉永大火)、これにより孝明天皇はいったん下鴨神社へ避難し、さらに聖護院へと避難されている。15日には禁裏御所北側の桂宮邸が仮御所となり、新内裏が完成するまで孝明天皇はこちらに住まわれることになる

 そして、安政2年(1855)に新内裏が完成し、11月23日に孝明天皇がお戻りになる還幸が行われる。このときの還幸の行列77人に今藤玄俊も執翳殿部代として供奉している 

※「日本随筆大成編輯部 編『日本随筆大成』巻七,日本随筆大成刊行会,昭和2」に法学者・歴史学者で日本最後の明法博士・勢多章甫(せた のりみ)が詳しく記している

 

玄俊による白川家門人と霊明神社のつながり

 玄俊は今藤氏を継いだものの、霊明神社とはずっと深い関係にあったようだ。父・都愷同様に主殿寮に出仕するとともに白川家門人となっている。その門人たちには霊明神社を紹介、霊明神社の社中には白川家の取り次ぎを行っている

 また、霊山墓地の開拓・開発にはこの白川家の門人たちも協力している。霊山墓地は霊山の山を切り開き、墓地やその道の整備をせねばならず、人もお金も相当に必要なことであったろう。神道墓地を創設し、神道葬祭を断行するという村上都愷の神ながらの道の徹底という志を同じくする仲間がいなければ到底できないことであった。白川家門人は霊明神社にとって重要なつながりであった。『白川家門人帳』を見ると、玄俊がそのキーマンになっていることがよくわかる

 

 「文化五辰年三月四日 入門 風折浄衣・御禮金貮百疋 綾小路新町東江入 今藤多門廣三 改名 多門事 今藤常陸掾」(申次 為主殿寮史生 荒木右京)とある。多門が玄俊のことなのかどうか。白川家門人帳では、今藤常陸掾と今藤常陸大掾(玄俊)を書き分けているように見えるので、この多門は玄俊のことではないかもしれない。いずれ、同じ姓で同じ住所になっており、近親者であると思われる。ここでは今藤常陸掾今藤常陸大掾が推薦・取り次ぎを行っている記述に注目してみる

 

■文政五年三月に今藤常陸掾の推薦で神部屋弁次の倅・稻次兵吾教繁、鮫屋庄介(佐々木庄介重俊)が門人になる

 

■文政八乙酉年十月に今藤常陸大掾の推薦で今藤常陸掾と同居している筈井元三郎(藤原)景行・木村儀助源明禮、高辻新町東江入所の呉服商人の木村佐助源義一、田中克藏(掃部)源正義(東洞院五条上ル町の山村屋克藏のこと)、佐々木小太郎(七條松明殿神主相続)が門人となっている

また、上記と同日に、中澤主水の推薦で今藤常陸大掾の同居人・池田重三郎藤原泰榮が入門し、今藤常陸掾の推薦で主殿寮官人・奥澤若狭介(藤原興仲)が門人となっている。この奥澤若狭介は霊明神社の社中になっており、霊山墓地で神葬しており、奥澤家の代々の奥都城があり、今なお霊明神社の社中である

 

■文政十一戌子年九月には前述の木村儀助が両親の墓地を霊山墓地に作りたい旨を神祇伯王に申し出ており、やはり、その推薦を今藤常陸大掾が行っている。白川家門人帳によれば、神道墓地の開発にこの木村儀助が関わっていることがわかる

※この件については、現在のところ霊明神社の史料からは確認できておらず、その奥都城があるかどうかも含め調査中

木村儀助による霊山墓地への神葬についての記述を「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」より作成
木村儀助による霊山墓地への神葬についての記述を「近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972」より作成

■文政十二年十月に今藤常陸掾と畑主殿允の推薦で鑄物師統領家・名越彌右衛門(藤原昌輝)が門人になる

また同日に「御門人之列」として今藤常陸掾の推薦で茶屋・平井榮次郎の名がある

 

■文政十二年十一月に今藤常陸掾の取り次ぎで五辻殿家来で鑄物統領家鎭守預兼・羽喰能登源清雄と鑄物統領家支配方兼・釜師 下司安兵衛(藤原政房)が門人になる

 

■天保五午年正月に今藤常陸大掾の取り次ぎで院雑色・原田備前介(美彦)と藤屋莊兵衛事・木下少太郎(寛胤)と松前屋幾久太郎事・松本幾久太郎(國成)が門人となる

 

■天保七年申五月に今藤常陸大掾の取り次ぎで画師で主殿寮史生の嶋田越前大椽源雅喬が門人となる

 

■天保八年酉正月に今藤常陸大掾の取り次ぎで松井嘉兵衛と藤澤傳六が門人となる

 

■天保八年九月に今藤常陸大掾の取り次ぎで平野社神主家の中西陸奥守が御舘入(おそらく吉田家との関係があり入門とはしていない)

 

■天保九年六月に今藤常陸掾と木下の取り次ぎで菅大臣天満宮社司代・本城清右衛門が門人となる

 

■天保十年十月に今藤常陸掾の取り次ぎで門人の松井嘉兵衛の倅・松井彌吉郎が後を継ぐ

 

■天保十五年正月に今藤常陸掾の取り次ぎで大神六物と下村鼎源是義と城戸久兵衛(藤原國種)が門人となる。城戸久兵衛(藤原國種)は霊山に神葬されており、城戸家の代々の奥都城があり、霊明神社の社中となっている

 

■弘化二年正月に今藤常陸大掾の取り次ぎで主殿寮史生・下村大和大掾(橘謙愿)と出納年預・垣内加賀介(大江匡幸)と青樹出雲(菅原孝純)が門人となる

 

■嘉永元年十一月に今藤常陸大掾の取り次ぎで画工・松本儀兵衛が門人となる

 松本儀兵衛とは玄々堂の松本保居のことであり、霊山に神葬されており、代々の奥都城がある。霊明神社の重要な社中であり、リンクの玄々堂の記事を参照してほしい

※また、同日に学所の安倍雅楽介(季良)も門人になっている。取り次ぎの名前がないが、おそらく上記同様に今藤常陸大掾の取り次ぎによるものではないだろうか

 

 以上、玄俊やその親族と思しき人物によって、白川家の門人になっている霊明神社の社中がいる(順番はどちらが先かはわからない)。また、玄俊たちが取り次いだ者たち以外にも、霊明神社の社中になっている者たちがいる。例えば、文化11年11月に白川家の門人になっている難波家の家来・澤山丹下貞善(芳)は霊山墓地に神葬されており、澤山家は代々霊明神社の社中となっている 

 白川家の門人たちは霊明神社の協力者であったり、社中になったりと、初期の霊明神社にとってとても重要な存在であったことがわかる

※上記は一部であり、白川家門人と霊明神社社中の名簿を照合しなければならない(継続調査)

 

※「神祇伯白川家と霊明神社」を参照のこと

 

<参考文献>

■[三上景文 著] ほか『地下家伝』第1-7,日本古典全集刊行会,昭和12

■弄翰子 編輯『平安人物誌』巻之下など

■近藤喜博 編『白川家門人帳』,白川家門人帳刊行会,清水堂出版 ,1972