初世・都愷の嫡子で土御門家の触頭、儒医の筆頭を務めました。智勇の人であり、博学多才で斯道の学はもとより陰陽道天文暦数故実に至るまで精通したといいます。
文政10(1827)年の京坂キリシタン摘発事件で大塩平八郎らに豊田貢らが捕まった際、その嫌疑が土御門家にまで及んだという。主家の無実を証明するために、大坂奉行所に乗り込み、歴術天文陰陽道等不審の条々数十ヶ条の申し開きを行い、見事にその嫌疑を晴らしました。
父の都愷を助け、もっぱら神道のために尽くし、文政2(1819)年に都愷が神去り、二世として父の志を継ぎます。翌年の文政3(1820)年には、正法寺清林庵の仮の「檀家」として葬儀を決行した門人に、一切の「違乱申立」はしないと清林庵とあらためて取り決めします。そして、正式に神道葬祭を認めてもらうために、神祇管領吉田殿家に願い出て、「神葬許状」をもらい受けます。
美平は、霊明神社の発展に、神ながらの道の徹底に尽くし、天保14(1843)年54歳にて神去りました。
やはり、東宮侍者小監物の藤原重武が美平を偲んで、
「道臣能名於負須登茂 阿加努香奈 皇御国能 伊佐武能君」
(みちおみの なをおうすとも あがつとめかな すめらみくにの いさむのきみ)
「かへし見る むかしのけふの ふみ月や
くもらぬ神霊の 影をみるかな」
と和歌を奉じています。
<略伝>
寛政元年(1789年) 初世・村上都愷大人の子として生まれる
文化 6年(1809年) 初世・村上都愷大人が霊明神社を創建
文政 2年(1819年) 二世・村上美平大人が後を継ぐ
文政 3年(1820年) 神祇管領吉田家より神葬祭許状を受ける
文政 6年(1823年) 神祇管領吉田家より永世神葬祭許状を受ける
文政10年(1827年) 大阪奉行所にて歴術天文陰陽道等不審の四十ヶ条の申し開き
天保14年(1843年) 7月8日に54歳で神去