霊明神社社中に銅版画の製作と印刷で活躍した玄々堂の一家がいる。霊明神社との関わりが深い社中であるともに、日本の銅版画史・印刷史や貨幣史において極めて重要な一家である。しかし、残念ながら、今はお参りされる方はほとんどない。せめて彼らの事績をここで紹介させていただき、慰霊と顕彰に努めるものである
玄々堂初代・松本保居 天明6年1786-慶応3年11月28日(1867年12月23日) 82歳神去
保居は代々宮家御用の数珠を製造していた5代目儀平源清信の嫡子として京都の東洞院仏光寺に生れる。この5代目のときに堺から京都に移り住んでいる。この数珠製造家が代々「儀平」を名乗っている
保居は幼少の頃より聡明かつ剛毅で、手先も器用であったようだ。美術・工芸を好み、日本の銅版油絵の開祖たる司馬江漢の技にほれ込んだ。また、渡辺崋山の蘭学の師・鷹見泉石の日記にもその名があらわれるように、京都の中でも屈指の蘭癖家として有名で、舶来の洋書や和蘭所製の金唐皮のようなものを多数所持していた
天保の初年には油絵の研究に熱心になり、画法にも通じたという。外来文化への取り締まりが厳しくなる中、数珠製造を廃業させて、新しく銅版画家師として生きる道を歩む。保居は銅版彫刻を学ぶために長崎に行く。そこでオランダ人から銅板画を習ったというが、本当のところはよくわかっていない。シーボルトあたりに習ったとするのも可能性は低く、この頃、長崎には銅版画がなかったためオランダ人ではなく、京都で先人の中伊三郎や井上九皐などに習ったのではないかとする説が有力とのこと
保居は堂号として「玄々堂」を名乗る。蔡邕(さいよう)の碑文「挹之若江湖仰之若華嶽玄々焉則無源汪々焉酌之則不竭」(広い湖や高い山に似て玄々として源なく、汪汪としてくどめもつきず)から採用されているという。正確にいつからはわかないが、その住まいと仕事場を霊明神社西墓地と同じ町内である桝屋町に移している。保居は勤王の志も厚かった。当時、追われる身となり潜伏中の高野長英(蘭学者)やその有意の士たちとよく交流したという。そういうこともあって霊明神社の近くに住まいを移したのか、それともそれはたまたまのことであったかどうかはわからないが、寺請制度・檀家制度がある中、霊明神社の社中になるということは相当の覚悟が必要であった。神道の信仰、国学や勤王に対する思いの強さがうかがえる
業績としては、司馬江漢の用いた舶来の腐食薬と磐城須賀川の人・亜欧堂の田善による腐食薬の薬性を改良して、「煮薬」と称した一種の混合腐食薬を考案し、玄々堂家伝の秘宝としている。保居の銅版製作は文政末期・天保初期あたりから始まったと考えられている。天保7年(1836年)頃から地図や西洋王侯の肖像、外国の風景、京阪名所絵などといった銅版画を制作刊行している。特に名所旧跡などは描写もすぐれていて評判が高まった。『若王子社内十二景図』は最も世にもてはやされた作品である
玄々堂の保居らの作品は、刻線の精密幽微を極めるとともに、銅板画を実用化・大衆化させたという点で大きな功績であったと評価されている。江戸では下火になっていた銅版画は上方でこの保居の玄々堂一派が発展させ、隆盛を極めたのである
※鴨川儀平とも名乗っている
※ちなみに「油絵」という名称もこの保居が命名したものであるという。厳密には使われなくなっていた油絵という名称をあらためて使いはじめて、一般に用いられる名称にした人物ということのようだ
松本保居の奥都城(お墓)は霊明神社が開拓した霊山墓地にある。その墓碑には「玄々堂松田保居乃墓」とある。なぜか、苗字が「松本」ではなく、「松田」となっている。松田姓は保居の長男・儀十郎が名乗った姓であり、保居自身は名乗ったことはない。儀十郎が執筆した保居の略歴のタイトルが「第六世松田儀平源保居略歴 附第七世儀十郎源敦朝履歴」となっており、保居のお墓をつくるときに、儀十郎がそのようにしたものと思われる
玄々堂一家の墓地には以下の奥都城がある
玄々堂 松田保居之墓 (墓碑裏:慶應三卯年十一月二十八日卒 □歳八十二歳)
保居之五男 蝶十郞保實 (墓碑裏:文久三癸亥六月二十二日卒 行年二十一歲)
保居之四男 觀次郎保種 (墓碑裏:安政四丁巳九月二十八日卒 行年十七歳)
保居之二女 龍女招魂之碣 (墓碑裏:嘉永元戊申八月十二日卒 行年十四歳)
また、霊明神社の『社中神霊記』や『霊名留』には上記の他に、数珠製造家の初代儀平から始まる代々の松本家(松田家)の家族の名前があり、霊明神社御霊屋ではその一族を祀っている
保居の次女の奥都城が招魂碑となっていることから、霊明神社の社中になったのは嘉永元年8月以降で、保居の四男が亡くなった安政4年9月までの間なのかもしれない(1848年から1857年の間と推定)
松田儀十郎 天保8年2月4日(1837年3月10日)-明治36年(1903年)10月31日 67歳神去
松田儀十郎は松本保居の長男で、父と同じく銅版画家となり、幕末から明治にかけて多くの銅版画を制作し、明治になると政府お抱えの紙幣の原版彫刻者として名を馳せる
幼名は亀之助。後に儀十郎、敦朝を名乗った。別号に蘭香亭、清泉堂などがある。幼いときから父・保居のそばで銅版彫刻を習い、「玄々堂十三童緑山鐫」と13歳で制作しているものもある
父同様に名所絵や風景、人物画も手掛けているが、儀十郎が本領を発揮したのは藩札や紙幣、切手、証券、地図である。幕末には、水戸藩、摂津高槻藩、美濃加納藩、同郡上藩などの藩札製造を行っている。これらは恵美須大黒や十二支の動物など斬新なデザインで評判となる
しかし、父・保居はこの藩札製造のことをよく思っておらず、銅板画家玄々堂の名が廃ると嘆いた。当の儀十郎は時代遅れの繰り言としか響かなかったようで、意見が合わないままに、儀十郎は保居のもとを離れることになる。松田姓を名乗るようになるのは、こうして父と袂をわかつことになったためではなかろうか
※一般的には、この儀十郎が玄々堂の2代目とされているが、実際のところは儀十郎の弟の民次郎(龍山)が保居の後を継いでいる。ここについては霊明神社の貴重な史料とともに後述したい
明治になると、新政府は金融を安定させるために、新たに造幣所を設置し、千数百種にも及ぶ藩札や洋銀の流通を止めるべく、全国統一の紙幣として太政官札(金札)を発行する。この印刷を任されたのが儀十郎であった。玄々堂らによる銅版彫刻は腐食凹版いわゆるエッチングという技術で、腐食防止剤を塗布した銅板に針で図柄を描き、その画線を薬液で腐食して彫刻するというもの。銅版画は木版彫刻に比べ、微細な表現ができ、耐久性に優れていたので、、紙幣の製造技術として幕末あたりから採用されるようになっている。二条城内に印刷所が設けられ(その前は二条の銀座にて製造に従事)、石田有年や石田旭山をはじめ多くの門弟を指揮して、金札約5千万円を製造した
さらに、明治2年5月完成の後、民部省札の製造も命じられ、9月に東京へ移住する。お札のほか、為替座三井組の証券や大蔵省出納寮の郵便切手などを印刷。有名な銭四十八文という日本最初の切手も儀十郎によるものであった
しかし、新政府の期待に応えるべく尽力するも、大量印刷するとどうしても紙幣1枚1枚に細かい差が出てしまい、銅版技術も広まっていたこともあり、偽造紙幣を簡単に作らせてしまうことになった。こうして先進技術を取り入れることが急務になり、欧米の印刷技術が採用されるところとなり、ついに儀十郎は追い出されるような形で自ら職を辞することとなる
儀十郎にとっては厳しい現実を突きつけられることになったが、これで折れることはなかった。ロンドン製の印刷機を買い入れて、日本橋呉服町に「玄々堂印刷所」を新しくはじめるのである。銅版画だけではなく石版画の技術も取り入れたようだ。学制にともなう必要な図面の教科書を刷ったり、1枚刷りの発売も行っている。この印刷所には明治になり誕生した初期の洋画家たちが興味をもって集まるところをなった。洋画家となった高橋由一もここでヨーロッパの石版画を体験し、その後の画家としての方向性を決定づける重要な出会いとなったようである。儀十郎の印刷所は美術や印刷業界関係者たちのサロンのような役割を果たした
また、儀十郎自身も油絵を描いて、明治10年の内閣勧業博覧会に出品して賞を受賞したり、自身が展覧会を催し、美術家の支援も惜しみなかったという。儀十郎のもとで職を得たり交流した人物として、下岡蓮杖、高橋由一、山本芳翠、石井鼎湖、石田有年・才次郎(旭山)兄弟、亀井至一・竹二郎兄弟、渡辺文三郎・幽香夫妻、彭城貞徳、疋田敬蔵、志田松翠、野村重喜、松岡正識、平木政次、中村文山、細木緑雄、福富淡水、水口龍之輔、若林長英、山本龍玉、清水喜勝、舘道策などがあげられている
儀十郎は明治36年67歳で東京新右衛門町の自宅で亡くなった。儀十郎の埋葬について大変残念なエピソードが残っている。以下は、儀十郎の門下・石田旭山(才次郎)が儀十郎のことを語っている一節である
「聞く所によれば、谷中か青山かに生前墓地を購ひおき、遺言にてそこに埋葬させたるなりし、予は大に先生の世話になりたれば、先生の二十ヶ年忌を営みたく、先生の累代の墓地のある東山の霊山に参りたる時、同山の祠官村上市次郎より、驚くべき事実を聞き得たり。村上氏いふ、敦朝(儀十郎)の養子角太郎といふは、誠に言語道断の人にて、墓地の価高きに目くらみ、東京青山の墓地を他人に売り渡し、先人の遺骸を火化して当地に持ち来り、初代の墓側に埋葬し呉れよと乞はる、予は警官立合の上ならでは、濫りに埋葬しがたき法律あれば、その手続を履まれたしと言へるに、無残にも自ら崖下を少しばかり掘りて埋め、小さき石を載せたるままにて、しるしをも立てずに逃げ去りたりといふ、予は、角太郎の仕打ちに呆れたるが、先づ資を捨てて小さな墓地を買ひ、そこに改め埋め奉りしことあり、初代の墓のすぐ近くなり、私は年々参詣を怠らざりしが、この節は、余り老体となりて出入も不便なれば、終参詣も怠り居るとの話なり」
※石田才次郎は現 株式会社写真化学の創業者(株式会社SCREENホールディングスのルーツ)
「祠官村上市次郎」とは、もちろん霊明神社5世神主のこと。上記のとおり、石田旭山が儀十郎の墓を霊山墓地に改葬しているわけであるが、大変残念ながら、その墓がわからなくなっている
松本保居は勤王の志も厚かった。当時、追われる身となり潜伏中の高野長英(蘭学者)やその有意の士たちとよく交流したという。そういうこともあって霊明神社の近くに住まいを移したのか、それともたまたまのことであったかどうかはわからないが、寺請制度・檀家制度がある中、霊明神社の社中になるということは相当の覚悟が必要であった。神道の信仰、国学や勤王に対する思いの強さがうかがえる
嘉永元年11月には初世・村上都愷の息子である玄俊(今藤常陸大掾)の取り次ぎで松本保居は白川家の門人になっている。やはり、この頃に霊明神社の社中になっているものと思われる
靖国神社のルーツとなる画期的な招魂祭が文久2年12月に霊明神社にて行われている。少々長くなるが、靖国神社と霊明神社の歴史にとって重要な祭祀であるので、詳述しておきたい
文久2年8月2日に、安政5年以降国事に殉じた者・罪を被った者を赦免し、彼らを弔う祭祀を行うように、孝明天皇の勅旨が下る。安政5年以降の殉難者とは、いわゆる戊午の密勅による水戸藩内部の抗争(水戸街道長岡宿で衝突)によって命を落とした者、安政の大獄の犠牲となった者、井伊直弼襲撃事件(桜田門外の変)の関係者、イギリス公使館を襲撃した東禅寺事件の関係者、老中安藤信正襲撃事件の関係者などである
この勅旨により、神祇伯白川家の家司・古川躬行を祭主として、報国忠士の招魂祭が霊明神社にて執り行われる。会頭頭取として福羽美静・世良利貞・西川吉輔・長尾育三郎。施主として薩摩と長州の二藩。御霊代として「報國忠死之霊」と書かれた掛物を奉設。お供えものとして鯛五十~六十枚、白飯、焼餅、鳥芋(くわい)、昆布、チリメンザコ五品など
画期的だとされるのは勅旨が下った公的な招魂祭であったこと。祀った人も参列した人も藩を越えての全国規模の祭典であったことなどが挙げられる。招魂祭・招魂社のルーツとして極めて従よな祭典であった
この祭典に参集した志士らが61名。ここには幕末に様々なエピソードを持った人たちが集まっている。参列した人たちのことは何かの機会で紹介するとして、まさにこの中に松田儀十郎の名前がある。この招魂祭には、実は志士以外にも遺族などが参列しているが、公式の記録にはその名前は記載されてはいない。名前が記載されるのは関わりのある藩や公家の人たちである。にもかかわらず、所属のない儀十郎だけが名前を残されている。この意味は大きい。調べた限りでは、森寛斎のように隠密をしていたわけではなさそうだが、父と同じように志士らと交流を持っていたことがわかる(水戸藩の藩札も手掛けており、水戸藩とはつながりがあったかもしれない)。金銭的な支援ぐらいはしていたのかもしれない
明治元年(1868) 閏4月、吉田家が門人配下を廃止したことから、吉田家許状によって神道葬祭を行っていた霊明舎(霊明神社)は、弁事役所に神葬祭墓地を仰せ付けられるように願い出る。翌5月には神職を認められ、それまで神道葬祭を行いながらも、制度上表向きには時宗正法寺塔頭の朱印地としておかなければならなかったので、これを機に霊明神社の神道葬祭墓所として除地の扱いが認められたのである
そして、初世・都愷以来三代にわたって神職を務めながらも清林庵檀家として人別を出してきたことは本意ではなく、また社中の者も清林庵檀家のままでは不都合であるとして(繰り返しになるが、表立っては神道による葬儀が出来ないための策であった。これに正法寺が協力してくれた)、 門人(社中)が邪宗門でないことを霊明神社が保証した上で、それぞれの町から神道で人別を出してもよいか、京都府に伺いを立てている。それに対して京都府は 三世・都平と長男・歳太郎(4世)に「神道葬祭之儀追テ御規則相立候上其節御沙汰可有之夫迄之処申出之通相心得邪宗ニ無之血誓致せ候上相改メ候書付京都府江差出シ可申事」という付紙を先の願書に付け、回答するよう求めた。これにより、まず1回目の社中名前書として、
生西大川西江入 奥澤玄碩
聖護院村 遠藤近江
松原広道西江入ル 松田儀十郎
九条殿御内 佐々木内匠
押小路御幸町西江入ル 澤山丹治
安井同前 松村志津麿
伏見街道 村上市正
寺町仏光寺上ル 井筒屋八蔵
四条寺町西江入ル 大文字屋治兵衛
西洞院松原下ル 菱屋治助
東洞院四条上ル 豊後屋市兵衛
四条御旅町 奈良屋甚兵衛
御幸町仏光寺綾小路上ル 近江屋寅吉
姉小路小川西江入ル 城殿屋仁三郎
木屋町松原上ル 刀屋市次郎
以上、15人を出し、12月にはさらに、
霊山下桝屋 松本屋儀平
奈良屋直三郎
近江屋豊七
京枡屋幸三郎
の4名を新しく追加して申請している。明治3年にはさらに7名が加わっている
さて、社中の3番目という上位に松田儀十郎の名がある。また、新しく追加になった人に松本屋儀平の名前を確認することができる。ここでいう松本屋儀平とは保居の息子で儀十郎の弟・民次郎(龍山、保信)のことである
また、日本は神の国であるとして、この国に生れたものであれば、誰しも神道であるとして、キリシタンや邪宗の疑わしい人は諭し、仏教や両部神道とも交わらず、熊野大神宮に背くことがないように、社中に誓わせ署名させた『神文誓㫖之㕝』(明治元戊辰年12月)がある。これにも松田儀十郎と松本屋儀平、松田太三郎(保居の三男)の名前がある。一般的には、保居を継いだのは儀十郎とされているが、代々の儀平の名を継いでいるのは家を出た儀十郎ではなく、京都の玄々堂に残った弟の民次郎(龍山)の方であることがこの史料から読み取れる
明治2年4月より霊明神社の本社の建立について、いよいよ具体的な計画の相談が始まる。霊明舎は表向きは時宗の体裁を装い、秘匿のうえ神道葬祭を行わねばならず、いわゆる一般的な社殿を持つことなど叶わぬことであった。時代が変わり、霊明舎が晴れて霊明神社として認められるところとなり、本社を建立する機運が高まった。実際の建築にこぎつけるまでにはあと数年かかる。役所の許可やお金の工面などに時間を要したものと思われる
この最初の計画立案時に儀十郎が大きな役割を果たしている。社中の代表的な立場であって、3世・都平の相談役にもなっている(儀十郎の肩書には「楮幣金札方」とある)。また、5月には世話役に井八(井筒屋八蔵のこと)・大治(大文字屋治兵衛のこと)・泉治(錦寺町の人。誰のことか不明)を定め、そこにさらに4名を追加している。この中に松本屋儀兵衛(龍山)と松本太三郎がいる。儀十郎だけでなく、兄弟でこの案件に加わっていることがわかる。霊明神社と玄々堂とのつながりの深さがうかがい知れよう。蛇足ながら、この本社の建立には森寛斎の尽力があったことも付け加えておきたい
こうして、霊明神社の社中や長州藩の関係者などの尽力があって、具体的に話が進み始めるも、タイミングを同じくして儀十郎が太政官楮幣局(造幣局)で作っていた太政官札の印刷が完了し、その職を離れることになった。儀十郎と仕事を共にしていた玄々堂一門が無職となったために普請の話は延期することになったとある。霊明神社とのつながりが深いがために、良くも悪くも儀十郎の状況に左右されたようである
保居の六男(8番目の末っ子)で、儀十郎の弟・松本民次郎が松田龍山である。京都の玄々堂を継いだのはこの龍山であり、父から受け継いだ「儀平」を名乗っている。また、別名として松田保信を名乗っており、東京に進出しても父のことを意識しているように思える(儀十郎は「保」がつく別名を持っていない)。ちなみに、以下の水路部からの要請があったときも、病気を理由に東京に行くことを数回渋っている。京都で父の残した玄々堂で仕事をしたかった人であろうと推察する
龍山もまた保居や儀十郎と同様に霊明神社の社中として名前(松本屋儀平)を残している。龍山の事績として記しておきたいのが、日本人の手によるわが国最初の海図第一号となる『陸中國釜石港之図』(明治5年9月)である
水路部沿革史には「海図彫刻ノ為メ京都府平民松田儀平ナル者ヲ採用ス 松田ハ代々日本旧式ノ銅鐫ヲ業トシ儀平ハ其素養アリ 且出藍ノ技ヲ有ス 初メ固辞シタルモ京都府知事ノ懇諭ニ依リ其職ニ就ケリ 是レ我海図彫刻ノ創始者ニシテ其事業ノ困難ニ耐ヘ幾多ノ苦辛研究ヲナシタルハ他ノ事業ニ譲ラス 実ニ今日彫刻進歩ノ基礎ヲナシタルモノニシテ 其功績ハ後人ノ宜シク牢記スヘキ所ナリ」とあり、龍山のことを高く評価している。龍山はその後も海図を数多く手掛けるとともに、後進の育成にも尽力している
龍山は、明治40年1月25日に55歳で亡くなり、谷中墓地に埋葬されているとのこと。霊明神社では祀られていない
※松田姓は正確には京都の玄々堂を離れて、兄のもとに行ってから名乗っていると思われる
※水路部とは、旧日本海軍の組織の一つで海図製作・海洋測量・海象気象天体観測の業務にあたった。現在でいうところの海上保安庁海洋情報部
【参考文献】
西村貞 著『日本銅版画志』,藤森書店,1982
赤井達郎『京名所銅版画(町人の美術)』-原田伴彦ら著『近世・京都 : ゼミナール』,朝日新聞社,1978
近藤金広著『紙幣寮夜話』,原書房,1977
石田敬三翁伝編修室 編『石田敬三翁伝』,大日本スクリーン製造[ほか],1965
酒井忠康 著『海の鎖 : 描かれた維新』,小沢書店,1977
小野忠重 著『江戸の洋画家』,三彩社,1968
『新旧時代』第2年(9),明治文化研究会,福永書店,1926
水路部 編『水路部沿革史』明治2-18年,水路部,大正5.
津田信吉 述『奎堂松本先生ニ就テ』,宇都宮万五治,昭15