霊明神社では、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起こった寺田屋事件の殉難志士らを祀っている
文久2年(1862年)3月、薩摩藩の国父・島津久光が公武合体を進めるために、兵を率いて京都へ向かう。久光がいよいよ倒幕に踏み切ったのかと勘違いした尊王派の志士が京都に集まろうとした
過激な志士らは京都の焼き討ちと挙兵を企てようとしていた。先発していた西郷隆盛は、事前に平野国臣らから、こういった情勢について聞き及んでいた。この動きを止めようと説得に赴くも、勝手に動いたとして久光の怒りを買い、再び島送り(徳之島→沖永良部島)の憂き目にあう
4月に入京した久光は、自身の入京にあわせて倒幕を計画した薩摩藩士をいさめるべく、朝廷より浪士鎮撫の朝旨を受ける
薩摩藩の有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、こういった久光の動きを受け入れられず、諸藩の志を同じくする真木和泉、田中河内介らと相談し、あらためて佐幕派の関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義の暗殺を計画する。この暗殺をもって久光に蜂起を促そうというのだ
間の経緯は省略するが、ことを起こそうと寺田屋に集結していた志士たちに対して、これを止めようと久光が遣わした鎮撫使たちが説得を試みるも叶わず、上意討ちとなり残念ながら衝突することになる
<志士>有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵、田中謙助、森山新五左衛門、美玉三平、岩元勇助、西郷信吾、大山弥助、三島弥兵衛、木藤市助(市之介)、伊集院直右衛門、篠原冬一郎、坂元彦右衛門、森新兵衛(真兵衛)、深見休蔵、吉原弥二郎、永山弥一郎、柴山龍五郎、是枝万助(柴山矢吉)、林正之進、谷元兵右衛門、吉田清右衛門、町田六郎左衛門、有馬休八、岸良三之介、橋口吉之丞、真木和泉、真木菊四郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻平太郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、淵上謙三らがいる(逃亡したものが多数いる)
<鎮撫使>奈良原喜八郎、大山格之助、道島五郎兵衛、鈴木勇右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏仲左衛門、森岡善助、上床源助
捕まった者たちは帰藩謹慎を命じられることになるが、このとき、斬られて命を落とした志士が有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵の6名。重傷を負い、捕まり、翌日切腹させられた志士が田中謙助・森山新五左衛門の2名。また、これに加わる予定であったが、療養中でいなかった山本四郎(義徳)が帰藩謹慎に従わず切腹となった
以上の9名の遺骸は薩摩藩ゆかりの大黒寺で葬られている(士籍剥奪の上、死体埋捨)。また、このとき鎮撫使の道島五郎兵衛も亡くなっているが、藩命にて倒れたということで、薩摩藩の菩提寺である東福寺塔頭即宗院即に丁重に葬られ墓地も建立されている。9名は説得に応じず、藩命に背いたことで罪科人であるとし、菩提寺で葬ることは許されなかったのである
元治元年(1864年)、薩摩藩の大赦により有馬たちの罪が許され、同年10月に西郷隆盛によって伏見寺田屋殉難九烈士として墓石が建立された。墓碑は西郷の揮毫によるもの。西郷隆盛は有望であった有馬らの死を大いに悲しんだという。自分が止められていたらという自責の思いもあったかもしれない
霊明神社神名帳には「伏水大国寺内墳墓九名」と記され、この9名の名前がある。霊明神社でいつから祀られたのかは定かではないが、文久2年12月の霊明神社で斎行された報国忠士の招魂祭では薩摩藩士も参列しており、胸中では彼らのことも思っていたに違いない
また、騙され非業の死を遂げる田中河内介らも霊明神社で祀られている。この子孫と霊明神社神職は交流もあった。別途記事を設ける予定である
※霊明神社で祀ることになったのは、おそらく西郷隆盛が墓地を建立して以降で、禁門の変のことを考慮すると、薩長同盟が成立した慶応2年以降ではないかと思われる(調査中)