昨年の番組小学校創設150周年を記念して、当時、小学校の設立に尽力した森寛斎大人をご紹介いたします
本姓は石田。幼名は幸吉。諱は公粛。字は子容、 または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山など
森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。幕末の争乱時には長州藩の密偵として活躍するも、維新後は画家一筋に、温和で情趣的な画風で「明治の応挙」と評された
1814(文化11)年1月11日、長州萩藩の下級武士・石田傳内道政の三男として生まれる
1825(文政8)年、萩浜崎の万福寺の寺侍・太田(田)龍に絵を習う
1831(天保2)年、大坂蔵屋敷の検使役となった戸田九郎左衛門に従って大坂に行き、円山応挙の弟子・森徹山に師事する。しかし、戸田が病気になり、戸田とともに長州に戻る
1838(天保9)年、京都にいる徹山のもとへ行き、再入門
1840(天保11)年、徹山の養子になる。徹山の娘婿・一鳳らと共に、円山派(森派)の画名を関西に広め、円山派の復興の一端を担った
翌年、徹山が亡くなると、一時京都を離れ、四国や中国地方などを遊歴している
1855(安政2)年、御所造営に一鳳と共に参加し、常御殿の杉戸に「帰去来」「赤壁」を描いている
長州人の血がそうさせるのか、寛斎もまた勤皇の志の厚い人でありました。
幕末の政情不安が起こると、絵師としての身分を隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にもしたという。その中には山縣有朋や品川弥二郎などもおり、特に品川との交流はその後も長く続き、品川から寛斎へ宛てた手紙が多く残っている。
品川が藩邸での射撃訓練で的にするため異国人の絵を描いてほしいと「人体的異人図」(右図)を寛斎に描いてもらっている。
また、北垣国道は生野の変の後、長州に潜伏中、間諜と間違えられ斬られそうになるが、寛斎によって命を救われる。北垣はこれを深く感謝し、後年になっても任地先からしばしば酒を贈っていたそうだ。
長州藩は、1863(文久3)年8月18日の政変により政治から遠ざけられ、1864(元治元)年7月19日には禁門の変で敗れる。寛斎もまた身の危険を感じ、住まいを離れて身を潜める。長州藩士たちとの密談で、京都の状況を藩主に伝える役を寛斎が担うことになる。寛斎は、農民に変装して金毘羅参りを装って、大坂から讃岐、讃岐から宮島、宮島から三田尻と船を使って長州に戻ったといいます。(ちなみに、その金刀比羅宮には応挙の障壁画などの補修にも行っていたので、その前後の道中には寛斎を助ける者もいたかもしれません)
無事に長州に戻り、藩主・毛利敬親に復命すると、さらに京都との密偵役をするように任じられます。こうして、寛斎は何度も長州と京都を往復するようになる。その活躍により一時は新撰組にも命を狙われたといいます。
『近世名匠談』には、当時幕府方が長州の志士を捜索する際、「ハクション」ではなく「ハクショ―」とする、くしゃみの癖を手掛かりにしたといい、寛斎はそれを隠すのに苦労したという逸話が残っています。
1865(慶応元)年、長州萩藩の御用絵師となる
1870(明治3)年、絵に専念するため賞典返上帰商願を藩に提出。藩はこれを認めて恩典に金100両を贈る
当時、政府の要人となっていた木戸孝允(桂小五郎)や品川などから政府への誘いを受けるが固辞し、本来の道であった絵に専念する。塩川文麟らと如雲社(後の後素協会)に参加し、文麟が亡くなってからは、如雲社の代表にもなり、京都画壇の中心的存在となる。
寛斎宅には画家仲間のほかに、京都府知事・槇村正直、北垣、山縣、品川など政府高官たちが訪ねている。
※ちなみに、品川弥二郎夫妻の墓地も霊明神社管理墓地(正法寺境内内)である
絵の道にまい進した寛斎であったが、若くして命を散らした仲間への思いだけは変わることはなかった。
1876(明治9)年に、木戸孝允らが幕末維新殉難者たちの慰霊と顕彰のための民間組織・養正社を立ち上げましたが、そこでの招魂祭などには必ず参列したといいます。あるときの招魂祭では「もろともに 尽くしもはてず いたづらに 残りて君を まつるかなしさ」という歌を詠んでいます。
※当時の官祭による招魂祭の斎主は、明治19年4月まで霊明神社の神主・村上が勤めていました
1880(明治13)年、京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)設立に伴って出仕となり、2年後には画学講座も担当している
1882(明治15)年、第1回内国絵画共進会で「葡萄栗鼠図」が銀印
その同じ絵を明治天皇から勅命を受けて描いて献上し、さらに金刀比羅宮からも再三頼まれて描いています。しかし、画家として不本意だったのか、寛斎は「二度と同じ絵は描かない」と宣言している
1886(明治19)年、京都青年絵画研究会会長になる
1890(明治23)年、第3回日本美術協会展「後赤壁図」銀賞
同年、帝室技芸員制度が創設。橋本雅邦らと最初の技芸員となり選者に任じられる
1893(明治26)年、特旨によって正七位が贈られる
1894(明治27)年6月2日、前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅にて81歳にて神去り、霊明神社にて神葬(霊明神社南墓地)
『京都美術協会雑誌』は、「今此の明治の応挙を失ひたるを悼む」と追悼している
1928(昭和3)年、昭和天皇の御即位御大礼に際し、正五位が追贈されている
寛斎は、絵の依頼者から金品を包んで渡されても、絵の完成までその包みを決して開けなかったという。弥二郎からそのことを尋ねられた寛斎は「どんなに困っていても、金額が多いか少ないかで絵を描くことはしない」と答えたそうだ。寛斎の死後、遺品を弟子たちが見ると、その言葉通り、未完の絵の金品の包みが3つ開かれないまま残されていたそうです。寛斎の絵に対する姿勢や人となりがわかるエピソードです。
寛斎には子がなかったので弟子の雄山、直愛、松雨(西川貞吉)を養子にした。門下に野村文挙、山元春挙、巌島虹石、奥谷秋石らがいる
出生地は萩の雁島とされ、現在「贈正三位森寛斎誕生地」碑が建てられているが、防府生誕説もある
<辞世の歌>
「きのふまで 借りし重荷は 皆返し 今日よりかろき 露の旅立」
参考文献等
■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■元気発信!!「山口きらめーる」京都画壇を代表する画家として活躍した森寛斎
第1回:萩藩の密使として活躍 第2回:円山派の再興を託されて
■美術家の墓標、京都新聞社編 1993年
■小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
森寛斎は、志士のお祀りごとや墓参など(密談もあったかもしれません)で幾度となく霊明神社に訪れていたことが霊明神社の記録からわかっています。
特にも、明治10(1877)年、寛斎が招魂祭中に揮毫した絵(右図)が伝わっています。霊明神社社中の川合家が所蔵していたもので、現在は霊明神社に奉納されています。
さらに、『霊明誌 巻之二』の「霊明社神霊列伝(二)」其二に「森寛斎神霊伝」があります。ここには、寛斎が亡くなった翌日の日付で、寛斎の世話方の木村という人物から寛斎の略歴が霊明神社4世神主・歳太郎に送られてきていることが示されています。
これは、霊明神社で神葬をしてほしいという遺志にもとづき、葬儀の祝詞作成のために略伝を送ったものと考えられます。
4世・歳太郎により霊明神社の南墓地に手厚く神葬されました。墓碑には「正七位森寛斎之墓」と彫られ、裏には養子の雄山が建立したことが記されています。
※世話方の木村とは、「森寛斎先生行状記」『森寛斎七周年薦事会展観録』、平安後素如雲社(1900年)を著作した木村治輔のことでしょうか?
幕末の京都は動乱の舞台であり、混迷期を迎えていました。明治になって、京都はまちを立て直すとともに、近代化に向けたアクションを取る必要がありました。このとき、寛斎や町衆たちは教育に目を向けました。森寛斎がリーダーになって、寺子屋経営者・西谷良圃、画家・幸野楳嶺、書家・遠藤茂平、鳩居堂主人・熊谷直行らが集まり、子どもたちに教育を受けさせる仕組みを考えます。こうしてできるのが番組小学校です。明治政府が正式に学校制度を定める1872(明治5)年より3年も早い1869(明治2)年に、全国に先駆けて学区制の小学校を設立しました。寛斎を語る上では見逃せないエピソードです。
詳細は、他に譲るところですが、番組小学校の設立には町衆がお金を出し合ったということと、当時は公民館や消防署、お役所の出張所まで担う「地域の総合施設」であったという点が非常に重要で、京都ではこの番組小学校を単位として自治意識が高まり、まちづくりを行っていきます。現在は、ドーナッツ化現象や少子化などにともなう小中学校の統廃合もありますが、今なお元学区といわれる単位でまちが動いています。
このように寛斎が日本初の小学校設立とともに学区のまちづくりに貢献したことを知っていただければ幸いです。小学校など教育に携わる方や京都のまちづくりに関わる方など、寛斎の遺徳を偲んでいただける方は誰でも霊明神社に墓参ください。墓地にご案内いたします。
参考サイト