至誠の人。国学に志深く、門人を集めては神道を講じ、諸処国々へも出向きました
士分町人の別なく「我が国は神国なれば誰人も神ながらの道によるべきこと」と説き、「神ながらの道」の徹底のために「神道葬祭」を起こす覚悟を決めます
京都は東山の霊山に神道葬祭場を創設し、神道葬祭を断行します。この行動は、幕末とはいえ仏教全般の世において、儒仏両教に依存する幕府の政策に対する重大な反逆行為であり、寺院からの妨害や京都所司代の嫌疑、迫害を受けることになりました。
そのため、神祇管領・吉田家の公認ではありましたが、門人たちは表向きは頼み寺を持たなければならず、ない場合は正法寺清林庵を檀家寺として宗旨請状を出してもらう必要があった。そして、表面上は時宗の葬式を装い、神道式葬祭を行うといった苦労がありました
のちに、二世・美平の文政3年に(1820年)に神祇管領吉田家の「神葬式許状」を得て、正式に神道葬祭が認められるところとなります。
後年、勤王の志士たちは、初世・都愷の「死して護国の神となる」という思想に影響されて、「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬られることを如何に楽しとせしことぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉としました。
東宮侍者小監物藤原重武が都愷の功績を偲んで和歌を詠んでいます。
「しげ草の しげれる道の 路わけは
君がとがまの 光なりけり」
略伝
●宝暦2年(1752)2月10日 江州彦根藩家中・小倉貫仲(後に伊藤と改姓)の子として産まれ、久弥と名づけられた。出生後ただちに美濃金森藩家中・村上文右衛門方へしばらく預けられた
●宝暦6年(1756) 父親・貫仲得心の上、村上文右衛門が親となり、京都建仁寺町博多町の長谷川半兵衛(その妻・茂登)の養子になる
※霊山墓地の村上家墓地には、都愷が建立した長谷川半兵衛と茂登の奥都城がある
●詳細は不明だが、その後、名を長谷川掃部と改めて帯刀もしており、寛政5(1793)年には土御門東洞院殿(御所)に出仕していた。後年、神道を講じ、朝廷にも仕え、四御所の御用をも仰せつけられ、門人も多かった
●文化5年(1808)正月25日 補史生となる
●文化5年 2月21日 叙正七位下を賜る
●文化5年 5月10日 日向目となる
●文化5年 中宮御所より、翌年東宮御所より、年々御祈願の御用を仰せつけられた。荒和夏越祓として、このことが古文書に記されている。このとき都愷は従六位上日向目源朝臣都愷と名乗っている。このころ、建仁寺新地池殿町に住居。主殿寮史生として尽力
●文化6年(1809) 神道信仰徹底のため、幾多の困難を甞め、万難を排し、8月3日、正法寺の塔頭清林庵の土地を買い受け、神道葬墓地を創設し、11月霊明神社を創立した
●文化8年(1811) 閏2月1日に神祇伯・白川家に入門
「文化八未年閏二月一日 入門 神拝式斗・御禮鰹節一連 建仁寺町五条上ル 主殿寮史生 村上日向目都愷 申次:一条殿御家来 伊東縫殿」(『白川家門人帳』)
また、同年「洛東霊山神石図・霊明舎」を著述し、その奥書に従六位上日向目村上源朝臣都愷敬白とある
●文化13年(1816) 12月21日 従六位下を賜る
●文政2(1819)年 閏4月26日、68歳にて神去り、霊山の神葬地に鎮まりまして、永遠にここに葬ります神霊等を護るところ(都愷社)となります